心躍る音楽

音楽を楽しむことで私たちは「活力」を得ることができます。音楽によってなんとなく体を動かしてみたくなったり、じっとしていられなくなるような感覚を覚えることがあります。それは音楽によって体が動かしたくなってしまうほどの感動を得ているからです。そうです、音楽は「人を動かす」ことができるのです。

音楽によって体を動かすことは、そのまま消化していけば「ダンス」になります。ダンスは、音楽がなければ成立しないものなのです。この世に音楽がなければそれにあわせて踊ることは出来ません。音楽がなければ、「踊る」という行為自体が考えられないものだったのです。人は音楽を通じて体を動かすことで「カタルシス」を覚えます。心地良いビートにあわせて躍動することで、心の何かが爽やかにほぐれていくのです。音楽のもたらすカタルシスは、私たちに時を楽しむ術を与えてくれるのです。

私たちはふとした時に音楽を求めます。音楽は私たちに素晴らしい時間を与えてくれます。その場を満たした音楽は、その場にいる人たちをつき動かすことがあります。その瞬間、その場はその音楽に支配された躍動する空間となるのです。空間まるごとうねりをあげるように昂ぶるのです。それがライブハウスであれ、大きなコンサートホールであれ、クラブであれ、自宅であれ、人が音楽に支配されれば、その間はその音楽と共にあるのです。私たちは音楽に支配されることを潜在的に欲しています。

古来から「踊る」ということは精神的に重要なものとされていました。心が躍動するような音楽は私たちの精神を支配するものであり、宗教においても音楽は重要な位置を占めているのです。私たちは音楽によって支配されることで癒されたり、活力を得たりします。そのような「音楽」ですから。時には「麻薬」のように「音楽」を欲するようになるのです。私たちが人である限り、躍動する音楽は永遠です。

そのような音楽を奏でたり再生できたりするような人を「オーガナイザー」と呼んだりもします。音楽によって得られるカタルシスは、生物的に自然と欲するものであることを象徴しています。ダンスフロアであれ、演奏会場であれ、その場を躍動させることができる人、躍動させることができる存在は、世間的にも求められています。私たちを楽しませる存在として、世の中から求められるのです。

音楽によって躍動することを一度覚えてしまうと、それはずっと忘れることが出来ません。美しい旋律に感動することと、音楽で心が躍動することはまた別のカタルシスなのですが、どちらも言葉では表せない「感覚」なのです。そのような瞬間、私たちは音楽に感謝します。感謝するとともに、「また聴きたい」と思います。それは「対価」を支払ってでもまた聴きたいと感じるものなのです。音楽によって得られる感動を得るためなら、金銭を支払ってもいいということです。そのように感じてもらうことができて、支持者を増やすことで、「音楽で金銭を得る」ということが初めて可能になります。音楽家は人にカタルシスを与える存在なのです。どれだけ多くの人を躍動させられるか、感動させられるかは、その音楽の一種の「価値」でもあるのです。

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